本作品は、日本がバブル経済に向かって疾走していく昭和50年代から連載が開始し、ちょうどその終焉を迎えようとする平成の初頭で終了します。
そういった世相を背景に、経済的には豊かになっていく一方で、資本主義社会の矛盾や失われゆく古き良き時代の残照を鮮やかに描いた名作です。
そこで展開していく物語は光が強ければ強いほど、それとは対照的に影もまた色濃くなるという、この世の真理を我々に語りかけます。
基本的には、1話完結の構成になっている作品ですが、複数回登場する人物もいます。
今回紹介するのは、数々の名作の中でも、特に印象に残る「皮」という作品であります。
このストーリーは本作にしばしば登場し、人間味あふれる探偵業を営む松本という男が主役であることも、読後に深い余韻をもたらすのでしょう。
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Contents
「人間交差点~ヒューマンスクランブル~」あらすじ
愛と憎しみ、喜びと哀しみが織りなす無限の人間ドラマを描く珠玉の名作
「人間交差点~ヒューマンスクランブル~」第12巻『皮』あらすじ
ある日、警察を定年退職し、現在は私立探偵をしている松本は、新村という代議士から仕事を頼まれます。
その依頼とは娘の素行調査でした。
それは、娘が少し前にひどく怯えながら部屋に数日間引きこもっていたことを、両親が心配したからです。
娘の異変があったのが9月20日頃だという話を聞いた松本は、早速、OBのコネを生かして警察の資料室に向かいます。
そこで、後輩の須藤刑事から同時期に起こった事件として、業界紙の記者・土屋庄一という38歳の男が刃物で刺殺されたことを聞かされました。
被害者は札付きの悪党で、誰に殺されてもおかしくない人物でした。
松本がその事件を洗い出すべく土屋の身辺調査をしていくと、ある人物との接点が浮かび上がってきます。
その人物とはなんと!代議士からの依頼により素行調査をした娘・新村照美だったのです!
裕福な女子学生と薄汚い裏世界で蠢く性質の悪い中年男。
とても同じ世界に住む人間とは思えない二人。
しかし、長年の経験から松本は大胆な仮説を立て、この事件の全容を解き明かしていくのでした。

「人間交差点~ヒューマンスクランブル~」を読んで
この物語の主人公である老探偵松本は昭和の哀愁を皮膚感覚で体験した、人情深い好人物として描かれています。
鋭い洞察力に加え、時として含蓄のある名言も放つなど、「人間交差点」という人間の心の機微をテーマとする作品には欠かせない登場人物といえるでしょう。
真実を求める刑事達
実は、その他にも「皮」という物語には、魅力的な刑事達が登場します。
まずは、あらゆる漫画の中で私の人生観に最も影響を与えたといっても過言ではない人物について触れていきます。
作中では、松本の回想シーンでの登場となります。
この刑事は、松本がまだ新米だった頃の先輩で“落としの善七”の異名をとっていました。
どんな強情な容疑者も、彼の取り調べにかかると一晩で自白してしまうことから、このニックネームがついたのです。
彼は決して怒鳴ったり暴力をふるったりしない、実に優しい人柄でした。
それだけに、松本は不思議で仕方なく、ある晩、容疑者を自白させるコツについて聞いたのです。
「そんなものはないよ。ただね、罪を犯した奴は皆、内心じゃ人間に戻りたがっている…自白したい気持ちを抑えている」“落としの善七”は松本の問いに答えます。
松本はその答えに、「信じられませんよ、そんなこと…隠したがっているの間違いじゃないですか?」
誰もが当然に思うことを口にしました。
すると、善七は静かに語り出します。
「松本、よく覚えておきなさい。人間なんてものは、かろうじて人間をやっているんだ。人間と獣の境なんてものは薄い皮一枚で隔てられている。犯罪なんてものは獣のすることだが、誰でも簡単に獣になる心を持っている…それを抑えているにすぎない。人間の顔をした薄い皮一枚でね」

聞き入る松本に善七は続けます。
「自白させるんじゃない。我々刑事が自白するんだ…皮一枚脱いで獣になって、全てを自白するんだ。そして、相手にすがるんだ。心から自分がどうしたらいいか、教えを乞うんだ。
人間なんて孤独なもんだよ。精神というものだけを支えに生きているんだ」
優しげな、それでいて哀しみを湛えた眼差しで、“落としの善七”は人間の真理を語るのでした。
松本は須藤に告白します。
「その刑事の言葉を聞いて、目からウロコが落ちたような気がした。相手に教えを乞えと言われた時はショックだった。だが、その言葉を信じることが出来たからこそ、定年まで刑事をやれたんだ」
私が善七のセリフを目にしたのは、まだ20代前半の若造の頃でした。
しかし、これほどまでに人間というものを的確に表現したものはないと直感したのです。
人は時計の長針と短針が重なり合うようなタイミング、逢魔が時に遭遇した瞬間、どんな人間でも人を殺しかねない生き物だと、常々思っていたからかもしれません。
人は、それほどまでに危うい生き物なのです。
『薄皮一枚』で人間と獣が隔てられているに過ぎないという善七の言葉は、まさに言い得て妙なのではないでしょうか。
人間という孤独な存在の本質を看破した、箴言と呼ぶに相応しいものだと感じ入りました。
次に、ご紹介したいのが、松本の刑事時代の後輩・須藤です。
風貌からすると、青年というよりは中年に差し掛かった中堅刑事といった感じでしょうか。
彼は松本を慕うだけあって、なかなか気骨のあるところを見せてくれます。
松本から照美の話を聞いた彼は、一緒に捜査を進めていきます。
そんなある日、土屋が取材をしていたスクープ記事と関連する、暴力団の組員が自首しました。
しかし、須藤は新村照美を追った刑事の勘として、その暴力団組員が犯人ではないと言い切ります。
そして、捜査本部が解散したというのに、松本と一緒に捜査を続けると言うのです。
上司からの猛反対にもかかわらず…。
須藤は言います。
「俺は上を怖いと思ったことは一度もありません。本当に怖いのは真実が隠されることです」
私は、この須藤という刑事の発言に感銘を受けました。
組織に長年いると、どうしても上層部の顔色を窺い、多かれ少なかれ忖度をするようになります。
しかし、刑事という国民からの信頼という負託を受け、その安全を守る使命を持つ彼らがそうした姿勢では真実が闇に葬られてしまいます。
損得抜きに己が職務の本懐を遂げんとする須藤には、間違いなく“落としの善七”から松本へ継承された刑事としての矜持が脈々と受け継がれているのだと確信しました。
失われたもの
事件を追っていく最中、松本は土屋の青春の記録ともいうべき私小説を入手します。
「まこと恐ろしきは死を理解せずに生きること…」で始まる作品は、駄作を絵に描いたような稚拙なものでした。
しかし、学生運動に挫折し理想が破れていくうちに、社会の底辺へと堕ちていく主人公の心情だけは手に取るように伝わってきたのです。
そこには、今の小説にはない魂の孤独がありました。
そして、土屋と照美がホテルで密会していた情報も掴むのです。
こうして、松本はある事実のみを根拠に無謀とも思える推理を組み立てます。
その事実とは、土屋のワイシャツにかすかに付着していた口紅が、新村照美の使用しているものと一致していたのです。
松本は、刺殺事件の真犯人を新村照美だと結論付けたのでした。
しかし、照美が犯人だということを裏付ける証拠は全くありません。
それどころか、犯人が捕まり事件が解決をみたというのに、大胆不敵にも松本は照美から自供を引き出そうと接触を試みます。
事件の現場に照美を呼び出し、松本はこれまで調べた状況証拠とそれに基づく推理を展開していきます。
その内容は、さすがの松本も自ら穴だらけだと自嘲するほど、真実味のないものでした。
それはひとえに、松本のこれまでの長きに渡る人生経験、そして人間という生き物に対する確信にも似た思いから出た結論だったのです。
その推理の根底にあるものは、名刑事“落としの善七”が語っていた人間の真理でした。
「冗談じゃないわ!第一、動機がないじゃない!私がどうして、土屋という男を殺さなきゃならないの!!」照美は激しく抗弁します。
その言葉に松本も同意します。
「その通り。一番大事な動機が抜けている…たとえ、土屋が君との関係をネタにゆすったとしても、金や父親の力を使えば訳なく潰せる」
「男と寝たことなんか、ゆすりのネタにもならないわよ。そんなこと平気よ」
強がる照美に、松本は事件の核心を突きつけます。
「ところが、ある言葉が我々の推理に含まれれば、全てが成立するんだ。君が土屋を愛していた場合だ。金をゆすられることなんか何とも思っていない君でも、土屋を愛していた場合だけは違う。愛し、信じ抜いた人間に金をゆすられたら、どんな人間でも怒り、悲しみ、絶望と殺意を持ったとしても不思議じゃない」
すると、同行した須藤が、「松本さん!俺、松本さんを尊敬してます。だけど間違っています。時代が違うんです。『皮』なんかなくても平気で生きていく人間が沢山いる時代なんです!」と松本を止めに入ります。
その一連のやり取りに照美は、「馬鹿らしくて、これ以上付き合えないわ!」と走り去っていきました。
「須藤、私は間違っていないよ…」
松本は照美の後ろ姿を見つめながら呟くのでした。
後日、須藤が松本の自宅を訪れます。
「どうした。青い顔して…?」
そう尋ねる松本に、息を弾ませながら須藤は話します。
「昨夜、新村照美がホテルの部屋から投身自殺をしました…遺書は見つかりませんでしたが、ホテルのメモ用紙に土屋の書いた小説の最初の一文が書かれていました」
「そうか…」

「松本さん!教えてください。あんな女が一体、土屋の何を愛することが出来たっていうんですか」
「たぶん…土屋があの女をゆするまで演じていた…昔の土屋をだよ」
松本は静かにそう答えるのでした。
このラストのやり取りは、本作において一番切ないシーンといえるでしょう。
「時代が変わった。『皮』なんてなくても生きられる人間ばかりになった」という須藤の発言は、私もそのとおりだと思いました。
しかし、松本だけは照美の本心を見抜いていたのです。
そして、どんなに時代が変わろうとも、人間の本質はそう容易く変わらないことも…。
「人間交差点」という珠玉の物語に、なぜ松本という老探偵が度々登場するのかが分かったような気がしました。
それぞれの人生模様
新村照美が土屋庄一を刃で刺す際に、滂沱の如く流した涙。
それは、10代の少女の純情を弄ばれた悔しさと憎しみ、そして何よりも深い悲しみの表れだったに違いありません。

私には、新村照美は殺人犯というより被害者にしか思えず、同情を禁じ得ません。
10代の少女が身も心も捧げた結末が、脅迫され金をゆすられたとしたら…。
最愛の男の目的が自分自身ではなく、自らの向こう側に透けて見える金銭だったとしたら…。
少女の純粋な思いは一体どこに向かえばよいのでしょう。
むしろ、小細工などせずにストレートに金を無心された方が、よほどマシだったに違いありません。
もしそうであるならば、このような悲劇は起こらなかったのではないかと思うのです。
一方、土屋庄一は殺されても仕方ないほどのクズです。
しかし、彼もまた若かりし頃には理想に燃え、高い志を持っていたにもかかわらず、現実を前にして夢破れていきます。
一見、悪魔に心を売ったように見える土屋ですが、心の奥底にはまだ穢れた大人になる前の遥か昔、確かに存在した魂の残り火が燻っていたのかもしれません。
だからこそ、酩酊すると押し入れから私小説を引っ張り出しては、続きを書いていたのではないでしょうか。
ただひたすら、純粋なまでに人を愛し、裏切られた少女。
現実を前にして追い求めた理想が霧散し、ダークサイドに堕ちていった中年男。
そして、名刑事の魂と意志を継ぎ、人間の本質を見つめ続ける老探偵。
彼等が織り成す人生の光と影のコントラストが、我々の心を哀感で包みます。
「人間なんてものは、かろうじて人間をやっているんだ。人間と獣の境なんて『皮』一枚で隔てられているにすぎない」
“落としの善七”と呼ばれた名刑事の言葉が、いつまでも私の胸に響くのでした。
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画力
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